計画17:H. サイモンの計画論

ここまでの議論は、H. サイモンの限定合理性を出発点として、E. ゴールドラットの制約理論によって計画が必ず遅れることを確認し、L. サッチマンの状況的行為論によって計画が状況判断の材料にすぎないことを見てきた。

今回は、その出発点にもどり、限定合理性をとなえたサイモンが「計画」をどのように見ていたのかを確認する。結論を先に紹介してしまうと、要は、人間の合理性がおよぶ範囲のごく短期の計画は有効だが、それより遠い未来に向けた計画は「期待」にすぎない、というものである。

なお、今回おもに引用する『Public Administration』(1950年)*1では、サイモンは計画を「将来についての提案、代替的提案の評価、およびこれらの提案の達成方法にかかわる活動」(サイモン他, 1977, p.361)と定義している。つまり、これからおこなう活動(提案の達成方法にかかわる活動)にとどまらず、その事業をおこなう意義や目的(将来についての提案)と代替案との比較(代替的提案の評価)をふくめ、広く定義していることをことわっておく。

いきなりだが、引用。「われわれが計画しようとしているタイム・スパンが長ければ長いほど、その過程は困難になる。もしわれわれが今日ないしは明日のためにのみ意思決定をするのなら、われわれはわれわれの選択を既知の条件および現在の状況に適合させることができる」(サイモン他, 1977, p.364)。つまり、冒頭に書いたとおり、われわれの合理性がおよぶ範囲のごく短期の計画は有効だが、それ以上の未来に向けた計画の実行は難しいというのである。

「それではなぜ組織はその決定を危険かつ不確実な将来にまで及ぼそうとするのであろうか」(同, p.364)。なぜなら、「組織が計画を余儀なくされるのは、主として、今日なされた決定および今日実行された活動が明日利用しうる選択肢を限定するからである」(同, p.364)。たとえば、新しい汚水処理システムを建設する場合、それはたんに明日の汚水を処理するためではなく、そのさき数十年にわたる汚水処理のためであり、そのために組織は長期にわたる計画を立てなければならなくなるのである。

これは埋没費用(サンクコスト)(すでに支払ってしまい、取り返すことのできない金銭的・時間的・労力的なコスト)*2の問題である。すなわち、設備への過大な投資による将来における無駄や、過小な投資による将来における追加投資を考慮すると、長期的な計画がどうしても必要になるのである。そして、埋没費用をうまない組織の事業はまれであるため*3、組織は長期計画を重視する。

「組織が計画を重視するのは、ほとんどの場合それは不可能であるが、将来がなんらかの程度の正確さでもって推測しうると確信しているからではなく、あてずっぽうや偶然に代わりうる唯一の代替案として将来はできるだけ正確に予測されなくてはならぬ、と考えているからである」(同, p.365)(下線は原著)。

だが、残念ながら、すでに見たとおり、人間の合理性は限定的であり、問題は悪構造問題であるため、問題解決は、大きな悪構造問題を人間の合理性で対応可能な小さな良構造問題に分割し、少しずつ、ひとつずつ、解決していくしかないのである。にも関わらず、われわれは長期計画をたてる。そして失敗する。

「多くの計画が有効でなく、その主たる理由が計画者が自ら設定した問題の困難さを認識しそこなうことにあるということは疑いの余地がない。(中略)計画は、計画者が問題の大きさを認識する程度、および計画によってなにをなしうるかについて適当な謙虚さを持って出発する程度に比例してのみ成功するように思われる。」(同, pp.385-386)。つまり、成功するのは短期計画なのである。

「計画は、おそらくそれが行為にほんの少し先立つ思考に密着してつくられるとき、もっとも成功するであろう。人は絶えず自己の満足に対する障害を認識し、それらを克服する方法を工夫する。彼は一つの障害を克服するや否やもう一つの障害を認識する。彼の注意はこれらの障害の認知によって統制される。また、彼はそれらを認知すると、それらを打破すべく行動を起こす。この短期的な計画および行為は、おそらく人間の計画が最大の成功を納めうる領域であろう」(同, p.386)。それゆえ、長期にわたる詳細な計画をたてることに意味はない。

「目標を達成しあるいは障害を克服するために、実際の行動についての詳細な青写真をつくるのは明らかに無意味である。なぜなら、われわれは現在それらの具体的な目標を持っていないし、障害がどのようなものであるかを知らないし、またその中において将来の行動がなされる諸条件の性質を知らないからである」(同, p.387)。すなわち、サイモンも、サッチマンと同様、われわれがなすべきことは計画の精緻化ではないといっているのである。サイモンは、計画を精緻化することでわれわれは将来を「期待」しているにすぎない、という。

「もちろん、行動している主体は、彼の行動から生ずる将来の結果を直接的に知ることはできない。もし、彼が知ることができると仮定するならば、ある種の逆の因果関係がここで働いていることになる――将来の結果が現在の行動の決定要因になってしまうであろう。彼がしていることは、将来の結果についての期待である」(サイモン, 1989, p.365)*4(下線は原著)。

まとめると、冒頭で紹介したとおり、人間の合理性がおよぶ範囲のごく短期の計画は有効だが、それより遠い未来に向けた計画は「期待」にすぎない、ということになる。

 

以上、サイモン、ゴールドラット、サッチマンをつうじて合理主義的計画の限界をみてきた。1年かかった。これだけ詳細に見れば十分だろう。ということで、次回から、反合理主義的計画ともいうべき、漸増主義的計画を見ていくことにする。

次回は、合理主義的計画から漸増主義的計画への橋渡しとして、本ブログのこれまでとこれからを概観しておきたいと思う。ある人から、「計画を否定されても困る。計画なしでどうしろというのか」という質問を受けた。そうだった。筆者の頭のなかには全体の見取り図があるが、それがない読者にとっては、今なにを見せられているのかわからないだろう。なので、次回は本ブログのこれまでとこれからについてざっと概観してみようと思う。

では、また。

*1:Simon, A. H., Smithburg, D. W., and Thompson, V. A. (1950). Public Administration. New York: Alfred A. Knopf Inc. 邦訳:サイモン, H.A., スミスバーグ, D.W., トンプソン, V.A.(共著)、岡本康雄・可合忠彦・増田孝治(共訳)(1977)『組織と管理の基礎理論』ダイヤモンド社.

*2:Sunk cost:投資、生産、消費などの経済行為に投じた固定費のうち、その経済行為を途中で中止、撤退、白紙にしたとしても、回収できない費用をさす。経済学の概念であり、「埋没費用」と訳される。個人の株式投資、企業の新規プロジェクト、政府の大型公共事業など広範な経済活動を継続するのか、それとも中止するのかを判断する際などに使われる。本来、サンクコストは回収できない費用なので、将来の意思決定には影響しない。しかし一般に人間は投下額が大きいほど、もとを取り戻そうとする心理が働き、経済行為を中止できない傾向がある。たとえば、イギリス・フランス政府共同の超音速旅客機「コンコルド」開発計画では、開発途上から赤字になることがわかっていたが、投資額が巨額に上ったため開発をやめられなかった。(小学館日本大百科全書(ニッポニカ)」より。)

*3:個人の事業でも埋没費用をうまないものはまれである。買い物、旅行、プロ野球観戦、ラーメン屋での行列などなど、いずれも埋没費用をうむ。

*4:サイモン, H.A.(著)、松田武彦・高柳暁・二村敏子(共訳)(1989)『経営行動:経営組織における意思決定プロセスの研究(第3版)』ダイアモンド社.

計画16:計画と状況的行為(4)

Suchman (1987) の実践的含意は、認知科学のプランニング・モデルに対する批判にあった。プランニング・モデルは、計画を、あらかじめ想定された目的を達成するために必要な一連の行為の流れをしめしたものとみなす(p.28)。これは、われわれの多くが「計画」と聞いたときに思い浮かべるイメージである。そして、本ブログのこれまでの議論にひきつけると、これは「合理主義的計画」である。これに対して、サッチマンは、計画はそのようなものではない、という。

「プランニング・モデルは、計画を、行為者の頭のなかにあって彼または彼女の行動を方向づけている何か、としてあつかう。それに対して私は、プランニング・モデルにもとづいて作られた人工物は計画と状況的行為を混同していると論じ、それにかわって、計画を、行為をもっともらしく説明する、行為の先行条件と結果の記述とみなすことを提唱する。行為について語る方法として、計画は、状況的行為の実際の進行を決定するものでもなければ、適切に再構成するものでもない」(p.3)。

ここで、計画が行為の結果を記述するとか再構成するといわれているのは、計画が、将来において何をすべきかを説明するだけでなく、過去において何が起こったかを遡及的に説明する働きを負っていることを意味している。つまり、行為を振り返り、計画というフィルターをとおすことによって、状況対応的・文脈依存的な行為をノイズとして捨て去り(p.102)、行為を抽象化し、計画どおりにできたとかできなかったといった振り返り(評価)の材料にしたり、その後の行為(プロジェクト)の計画の材料にしたりする、ということである。(すなわち、PCMの使い手のみなさん、われわれがプロジェクト評価でやっていることです。)

一方、理論的含意はさまざまあるが、ここでは研究アプローチに関する提言を見ておきたい。サッチマンは、状況的行為を、行為者間の、または行為者と環境のあいだのそのときどきの相互作用をとおして起こる創発特性(emergent property)と考えることを提唱する(p.179)。創発特性とは、複数の要素からなるシステムにおいて、要素間の相互作用により、個々の要素がもっていない特性、個々の要素の総和にとどまらない特性が現れることをいう。つまり、ある状況のなかで、行為者をふくむさまざまな環境要素が時々刻々相互に作用しあい、個々の要素を超えたなにかが時々刻々うみだされる。われわれの行為はそういうものだというのである。

「この行為の創発特性は、行為があらかじめ定められてはおらず、かといってでたらめでもないことを意味する。だとすれば、状況的行為に関する基本的な研究目標は、行為の構造と物理的・社会的環境があたえる判断材料やその制約との関係を明らかにすることになる」(p.179)。

ここで思い起こされるのは、行動経済学の洞察である。すなわち、人間は限定合理的であるがゆえに経済合理的な行動をとらない。ただし、ただでたらめに行動するのではなく、一定の偏りをもって行動する。その偏りを明らかにし体系化してうまれたのが行動経済学だった。
かたや、状況的行為論の洞察はこうである。すなわち、人間の行為は抽象的・合理的な計画からうまれるものではない。ただし、人間はただでたらめに行為するのではなく、環境との創発的な関係において行為する。それゆえ、行為と環境からなる創発特性を明らかにすることによってこそ、人間の行為のありようは解明されなければならない。
このふたつのアナロジーをプロジェクト計画にあてはめることが、本ブログの当面の目標だが、今回は両者の類縁性を指摘するにとどめ、プロジェクト計画の議論はのちの回にゆずる。

最後に、同書の結論を紹介して終わりとしたい。
「以上の事例から、行為は、環境との相互作用からうまれるものであり、計画にもとづいてなされるものではないことがわかる。計画は過去の行為の抽象的表現にすぎないため、行為にさいして参考にはなるが、行為をみちびくものではない。計画の機能は、環境のなかで起こってくるさまざまなことにたいして、あるものは利用し、あるものは避けることが可能になるよう、われわれを手助けすることである。
計画はどこまでも緻密につくることができる。しかし、計画が上記のようなものであれば、計画はその程度に緻密であればよい、ということになる。状況を完全に予想することはできないし、状況はつねに変化しているため、計画は本来あいまいなものである。しかし、このあいまいさは計画の欠点ではない。このあいまいさは、そのつど偶発的に起こってくる事態にたいして、そのつど対応して行為が決定されるという事実にこのうえなくふさわしいものである。そうであれば、われわれがなすべきことは、計画を精緻化することではない。計画は過去の行為の抽象的表現であると理解すること、計画がどのような判断材料であるかを理解すること、そして、どうすれば計画と環境が生産的な相互作用の関係にいたりうるかを考えることである」(pp.185-188 より筆者編集)。

サッチマンは、われわれの計画観の根底からの見直しをせまっているのである。

 

以上でサッチマンの「計画と状況的行為」は終わりとする。
次回は、限定合理性をとなえたH.サイモンが計画についてどのように考えていたのかを見て、合理主義的計画批判の最後としたい。

では、また。

計画15:計画と状況的行為(3)

行為が状況的であることをしめすふたつめの例は、カヌーで急流をくだる話しである。サッチマンは、「計画は、状況に対応した行為をおこなうための判断材料であって、いかなる意味においても、行為の進路を決定するものではない」(p.52)という。
たとえば、カヌーで急流をくだろうとするとき、その人は滝のうえにしばしとどまり、くだりかたを計画するかもしれない。「できるだけ左のほうをいって、あのふたつの大きな岩のあいだをぬけよう。つぎのこぶのあたりは後ろ向きになって右にいこう」と。だが、その計画がいかに詳細なものであっても、実際にカヌーが急流をくだる際にはおよそ役に立たない。流れに対応したり、カヌーをあやつる段になると、人はみごとに計画を捨て去り、自身のありとあらゆる身体化された能力をたよりにするのである*1。「この場合の計画の目的は、カヌーに急流をくだらせることではない。そうではなく、その最終分析において、その人の成功がかかっているところの身体化された技能をもちいるための最善の可能な位置を得させるべく、その人をみちびくことにある*2」(p.52)。つまり、計画は、進むべき道をしめすものではなく、瞬間瞬間をのりきるための最善の態勢を可能にするためのものだというのである。このあとで、サッチマンは、「地図が世界をめぐる旅行者の動きを文字どおりの意味でコントロールするなどと主張することが馬鹿げているように、計画が行為をコントロールすると考えるのは間違っている」(p.189)と断言している。

3つめの例としてあげられているのは、フェイテルソンとステフィク*3が報告した遺伝学者たちの実験計画の話しである。ふたりの観察によると、遺伝学者たちがたてる実験計画は、実験のみちすじを秩序だてて組み立てたようなものではなかった。その計画は、せいぜいのところ、実験室のさまざまな制約を整理し、彼らがそのなかで作業をおこなう環境を明確化する程度のものだった。「実験者たちは、事前の分析をとおして実験を計画するのではなく、そのときどきの観察結果を彼らの研究目的に関係づけることで、次に何をするべきかを決めていた。実験者たちの専門知は、計画を遂行することにではなく、たえず仮説を立てつづける能力や、実験のなかでセレンディピティ*4を追究する能力にあった」(p.188)。

(PCM(Project Cycle Management)の使い手である同業者のみなさんに思い出話をひとつ紹介します。PCMがODA業界に導入された初期のころ、PCMは研究プロジェクトにも使えるか、という議論がありました。勉強会だったか、FASIDにモデレーターが集まって議論をしました。そこで、マグロの研究をしていた大学の先生(彼もPCMモデレーター)が、「研究は発見が目的であって、まえもってゴールを設定することは難しい。ましてPDMに書かれた活動を実行すればゴールが達成できるなどというものではない」という趣旨の発言をしていました。彼が言いたかったのは、研究者が求めているのはセレンディピティだ、ということだったのかもしれません。だから、PCMのような線形的な計画は研究プロジェクトにはむかない、と。その後、PCMが研究プロジェクトに使われるようになったという話しは聞いていません。)

閑話休題。以上、これらの事例から、Suchman (1987)では、「計画は状況判断のための材料にすぎない」という仮説がたてられ、それを検証するために、同書の後半で、PARCの「かしこい」コピー機とその使用者のコミュニケーションがエスノメソドロジーの会話分析の手法によって詳細に分析される。結論だけ紹介すると、コピー機は使用者の意図とそれにもとづく行為を事前に推測してプログラミングされているわけだが、使用者は推測をこえたさまざまなレベルの質問を投げかけるため、機械と人間のあいだのコミュニケーションは破綻する。一例をあげると、コピー機はコピーのための手順をしめすが、使用者はその手順そのものの妥当性を問うような「メタ」な質問をし、コピー機は沈黙する。コピー機はたんに使用者の「適切な」反応を待っているだけなのだが、使用者はその沈黙の理由をさまざまに憶測する。なぜなら、人間どうしのコミュニケーションにおいては、沈黙はつねに語りの不在以上の意味をもつから(p.146)。そして使用者は途方にくれる、といった具合である。

 

以上が、 Suchman (1987) で紹介される、行為が状況的であることをしめす具体的な事例である。
次回は、同書の結論に関して考察し、「計画と状況的行為」の終わりとしたい。

では、また。

*1:この部分は計画不要論とうけとられ、さまざまな反論をよんだらしい。たとえば、H. サイモンは、スタントマンの仕事の99%は事故をさけるための計画づくりにあるという話しを引き、サッチマンの例はおよそわれわれの直観に反する(extremely counterintuitive)と批判している(Vera and Simon, 1993, p.16)。それに対してサッチマンは、確かに「みごとに捨て去る(effectively abandon)」と書いたのはまずかったかもしれないと認めたうえで、だが、それにつづく文章をみればわかるように、計画が不要だといっているのではなく、計画には別の目的があるといっているのだ、と反論している(Suchman, 1993, p.74)。うえに引用した文章がその「別の目的」に関する部分である。

*2:この部分は文章がわかりにくいので、原文をあげておく。"The purpose of the plan in this case is not to get your canoe through the rapids, but rather to orient you in such a way that you can obtain the best possible position from which to use those embodied skills on which, in the final analysis, your success depends".

*3:Feitelson, J. and Stefik, M. 1977. A case study of the reasoning in a genetics experiment. Heuristic Programming Project, Working Paper 77-18, Stanford, CA: Stanford University.

*4:偶然とそれに気づく賢明さによって、探していたものとは異なるものを発見すること。セレンディップスリランカの旧名)の3人の王子が旅をするなかで、彼らの能力や賢明さによって、有益なものを偶然発見するという昔話に由来する。

計画14:計画と状況的行為(2)

では、サッチマンの「計画は状況に対応した行為を選択するための判断材料にすぎない」という主張について考えてみよう。以下、Suchman (1987) *1からの引用は、既刊の邦訳本*2によらず、本ブログ筆者の訳文をもちいる。

ついては、用語の問題だが、situated action は訳しづらい。状況に対応した行為、状況によって意味づけられた行為、状況のなかに位置づけられた行為などの意味が含まれており、ひとことでそれらすべてを包含するような訳語がないのだ。邦訳本では「状況的行為」とか「状況に埋め込まれた行為」などと訳されているが、これだと日本語だけを見ても意味がよくわからない。かといって、より適切な訳語も思いつかない。しかたがないので、ここでは、「状況に対応した行為」、「状況によって意味づけられた行為」、「状況のなかに位置づけられた行為」など、適宜、文脈におうじた訳をもちい、それらすべてを含意する場合は「状況的行為」と呼ぶことにする。
なお、サッチマンによる situated action の説明は以下のとおりである。

「situated actionという用語は、いかなる行為も、本質的に、物質的・社会的な周辺状況によって決まるということを強調するものである。行為を、周辺状況から切り離して抽象化し、合理的な計画として描くのではなく、本書のアプローチは、人々が、知的な行為をおこなうために、周辺状況をどのように活用しているかを研究するものである。」(Suchman, 1987, p.50)

ところで、うえであげた、①状況に対応した行為、②状況によって意味づけられた行為、③状況のなかに位置づけられた行為は、行為が状況的であることの3つの様態をしめしている。たとえば、ある朝、あなたは会社にむかって歩いている。するとむこうから見知った顔の人物が歩いてくる。そこであなたはかるく片手を上げて「よっ!」と声をかけた。これは①状況に対応した行為である。見知った顔の人物にであったという状況に対応して行為したのである。ところが、どこかで見た顔だと思ったその人物は社長だった! この状況によって、あなたの行為は「平社員にあるまじき無礼」という意味をおびる。②状況によって行為が意味づけられたのである。その結果、「あいつは何者だ」ということになり、社内で無礼者をさがしだして処分するという状況が発生する。すなわち、あなたの行為は③無礼者をさがしだすという状況を構成する要素となり、状況のなかに位置づけられたのである。へたくそなたとえで恐縮だが、行為が状況的であるというのはこういうことであり、われわれの行為はすべて、このようなかたちで状況のただなかにある。*3

それでは、Suchman (1987) の議論をみていこう。以下に括弧でしめすページ番号は同書のページ番号である。

同書は、前々回にふれたトラック島民の航海の話しから始まる。
ヨーロッパの航海士は海図にえがかれた計画すなわち航路をたどることで航海する。彼の努力はつねに航路上、すなわち計画上にとどまることに向けられる。予想外のできごとがおこったら、計画を修正し、修正された計画にしたがって航海はつづけられる。それに対して、トラック島民の航海は目的地から始まる。彼らは目的地に向けて出発し、発生する状況にそのつど対応する。聞かれれば、彼らはいつでも目的地をさし示すことができるが、航路をさし示すことはできない。「注目すべきは、あらかじめ準備された計画なるものは明確なかたちではどこにも存在しないということである。むしろ、彼らの航海の原則は環境とのその場その場の相互作用にあるらしいのだ」(p.187)。そして、サッチマンは、行為はすべて具体的で身体的なものだが、計画は抽象的なものだという。「一方、ヨーロッパ人の計画は、航海の普遍的な原則からみちびきだされ、彼の状況のさしせまった事態とは本質的に別のものである」(p.viii)。

そして、トラック島民の話しにつづけて、同書全体の主張が簡潔明瞭に示される。いわく、「確かに、行為についてどう考えるかということと、実際にどう行為するかということのあいだには無視できない関係がある。しかし、どのように計画されようと、目的的行為はさけがたく状況的なのだ。状況的行為というのは、たんに、特定の具体的な状況の文脈においてとられる行為のことをいう。この意味で、わたしたちはトラック島民のように振る舞わないではいられない。なぜなら、わたしたちの行為の状況はけっして完全には予想できないし、わたしたちのまわりでつねに変化しているからである。むしろ、計画は、せいぜいのところ、そもそもアドホックな行為のためのささやかな判断材料にすぎないとみなすべきである」(pp.viii-ix より筆者編集)。

このあとさらに、行為が状況的であることの例として、カヌーで急流をくだる話しや、遺伝学者の実験の話しがあげられるが、その紹介は次回にまわす。今回はここまでとする。

では、また。

*1:Suchman, A. Lucy, (1987). Plans and situated actions: the problem of human-machine communication. Cambridge: Cambridge University Press.

*2:サッチマン, A. L.(著)、佐伯胖(監訳)、上野直樹・水川喜文・鈴木栄幸(共訳)(1999)『プランと状況的行為ー人間-機械コミュニケーションの可能性ー』産業図書株式会社.

*3:この段落の説明は、状況的行為に関する本ブログ筆者の理解で、サッチマンがこのように説明しているのではない。

計画13:計画と状況的行為(1)

さて、ここまで、合理主義的計画の不合理さを、サイモンの限定合理性とゴールドラットの制約理論の観点から見てきたわけだが、最後に、"状況論"の観点から見て、合理主義的計画の話しを終わることにしたい。ここで参照するのは、ルーシー・サッチマンの "Plans and Situated Actions" (1987) *1(邦訳『プランと状況的行為』(1999年)*2)である。

状況論(situated perspective)は「人間は状況に規定されている」という見方。すなわち、認知、心理、発話、行為、学習などなど、人間のさまざまな営みは、なんらかの類型や特性にもとづいているのではなく、そのときどきの状況に対応して決定されているとする考えかたの"総称"である。総称というのは、ギブソン生態学ヴィゴツキーの心理学、サッチマンのエスノメソドロジー、レイヴ&ウェンガーの教育学など、それぞれにルーツが異なるからである*3

L. サッチマン(Lucy A. Suchman)は、人類学者で、現在(2022年6月)、英国ランカスター大学の社会学部教授として、科学技術人類学の研究にたずさわっている。ランカスター大学のまえは、22年間、カリフォルニアにあるゼロックスのパロ・アルト研究所(PARC)で、AI開発にむけた人間-機械コミュニケーションの研究にたずさわっていた。そこでの成果をまとめたのが "Plans and Situated Actions" (1987) である。

同書は、認知科学*4において支配的であったプランニング・モデルに対する痛烈な批判の書となっている。
プランニング・モデルでは、人間は、まず頭のなかで計画し、その計画にしたがって行動すると考える。だから、その計画の生成過程や類型をモデル化すれば人間の行動を予想できる。予想できれば、あたかも人間とコミュニケーションしているかのような機械、すなわち「知的な機械」*5をつくることができる、と考える。
これに対して、サッチマンは、人間はそのときどきの状況に対応して行動しており、計画は、周囲の環境や人間関係などと同様、状況に対する対応を考えるための材料(リソース)のひとつにすぎない、という。同書の後半では、プランニング・モデルにもとづいて作られた「かしこい」コピー機が使用者とのコミュニケーションに失敗し破綻をきたす、いささか滑稽なプロセスが、エスノメソドロジー*6の会話分析の手法をもちいて詳細に分析される。

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(部屋のおくで立ったり座ったりしている、ジャケットをはおった人物がサッチマンだと思う。)

ということで、今回はサッチマンと"Plans and Situated Actions"(1987)の概要を紹介した。
次回は、同書の議論の中身に入る。

では、また。

*1:Suchman, A. Lucy, (1987). Plans and situated actions: the problem of human-machine communication. Cambridge: Cambridge University Press.

*2:サッチマン, A. L.(著)、佐伯胖(監訳)、上野直樹・水川喜文・鈴木栄幸(共訳)(1999)『プランと状況的行為ー人間-機械コミュニケーションの可能性ー』産業図書株式会社.

*3:レイヴ, J. ・ウェンガー, E.(著)、佐伯胖(訳)(1993)『状況に埋め込まれた学習ー正統的周辺参加ー』産業図書株式会社, p.173.

*4:認知科学(cognitive science)とは、情報処理という観点から、生体(特に人)の知の働きや性質を理解する学問です。1950年頃に、当時全盛であった行動主義心理学(behaviorism)に異を唱える形で、人工知能(artificial intelligence)とともに、いわば双子の学問として成立したと考えられています。非常に大雑把に言うと、行動主義心理学が、生体に与えられる刺激とそれに対する反応の対(連合)という外から観察可能な事柄だけを頼りに知を捉え、刺激から反応を生じさせる生体内部の情報処理という外から観察が難しい事柄に関心を向けなかったのに対して、認知科学は、このような情報処理こそが生体の知を考える上で重要だという認識のもとに生まれました。」(日本認知科学会ウェブサイト, 2022年6月21日参照)

*5:アラン・チューリング(1912年~1954年)は、人間と機械が対話をおこない、その対話を聞いた第3者が人間と機械を区別できなければ、その機械は知的(intelligent)であると判定してよいと考えた。これをチューリング・テストという。つまり、情報処理のメカニズムがどんなに異なっていても、入力に対する出力が同じであれば、それらは同じものとみなされる、ということである。

*6:アメリカの社会学ハロルド・ガーフィンケル(1917年~2011年)がみずからの研究方法を呼ぶために作った造語。「エスノメソドロジーは(中略)社会がすでにできあがった外在的で客観的な「もの」であるという見方をとらない。むしろ「あたりまえ」で自明視される日常を、文化人類学者がつねにフィールドでとる態度のようにあえて「奇妙なもの」として見るのである。それによって開かれる世界は(中略)微細で精密な意味生成の世界である。ものごとを子細に見、細かなディテールを愛することによって(中略)見えてくるものは、つねにローカルな具体的場面で世界と織り成されていく私たちの協働的実践である。」(ガーフィンケル・H他(著), 山田富秋・好井裕明山崎敬一(共訳),「エスノメソドロジー社会学的思考の解体」1987年, せりか書房, p.10.)

計画12:制約理論(TOC)(4)

以上に見てきたところをまとめると、以下の理由から、プロジェクトは必ず遅れる。

  •  前工程から後工程に遅れのみが引き継がれる。
  •  全体のスピードは最も能力の低い工程のスピードによって決定される。
  •  各タスクはぎりぎりになるまで開始されない(学生症候群)。
  •  ひとつのタスクが完了していないのに別のタスクにとりかかる(マルチタスキング)。
  •  タスクが計画より早く終わっても報告せず、納期になるまで次工程に引き渡さない(早期完了の未報告)。
  •  仕事は与えられた時間を使い切るまで膨張する(パーキンソンの法則)。

 

最初のふたつは、プロジェクトが前工程に依存するタスクの一連の連なりからなっていることと、各タスクの処理能力にばらつきがあるという、ごく当たり前な事実に起因しており、これは避けられない。

このことを知ってか知らずか、合理主義的計画は、この遅れに対処するために、個々のタスクにバッファー(余裕)を見込んでプロジェクト期間を見積もるということをやってきた。だが、バッファーは役に立たない。なぜなら、上記の下の4つの理由から、作業者がバッファーを食い尽くすから。

下の4つは人間の行動特性・心理特性であり、これも避けられない。人間の合理性は限定的であり、その振る舞いは非合理なのだ。だが、ただでたらめなのではなく、一定の偏りがある。プロジェクトにおける人間の行為の偏りが、学生症候群以下の4つである。

合理主義的計画は人間が合理的に振る舞うことを前提としてきた。伝統的経済学がそうしてきたように。そして、カーネマンとトヴェルスキーが心理学的視点をもちこむことでその前提に挑戦したように、ゴールドラットもまた心理学的視点をもちこむことでプロジェクトマネジメントの前提に挑戦した。だが、ゴールドラットの挑戦は成功しなかったようだ。経済学において行動経済学が生まれたようには、プロジェクトマネジメントにおいてTOC/CCPMが大きな潮流を生むことはなかった*1

最後に、合理主義的計画と漸増主義的計画の観点からCCPMを見ておく。

これまで見てきたように、CCPMは、計画は必ず遅れることを前提としている。それでも目標は期日までに達成しなければならない。では、どうするか? 前回も書いたが、CCPMでは、各タスクにいっさいバッファーをもうけず、プロジェクトの最後にプロジェクト・バッファーとしてまとめておく*2。各タスクにはバッファーがないので、各作業員は全速力で作業を進め、終わりしだい次工程に引き渡す。進捗の遅れはプロジェクト・バッファーで調整する。こうして、個々のタスクの進捗ではなく、プロジェクト全体として進捗を管理する。つまり、計画がえがいたコースをつねにたどることによってではなく、最後にまとめておいた余裕を流用し、途中は臨機応変に対応することによって期日までの目標達成を目指す、ということだ。

これは、次回に紹介しようと思っている、トラック諸島の島民の航海の話しを連想させる。ヨーロッパの航海士が海図にえがかれたコース上につねにとどまることで航海するのに対して、トラック諸島の島民の航海は、計画ではなく目標から始まる。彼らは目標に向けて出発し、発生する状況に臨機応変に対応する。彼らの努力は目的地への到達に必要なことをすべて実行することに向けられる。聞かれれば、彼らはいつでも目標をさし示すことができるが、コースを描くことはできない。*3

つまり、CCPMは漸増主義的計画である、ということなのだろう*4

 

以上で、TOC/CCPMは終わりとする。思ったよりずいぶん長くなった。
次回は、上で紹介したトラック諸島の話しではじまる、L. サッチマンの『プランと状況的行為』について考える。

 

*1:消え去ったわけではない。いまでも、プロジェクトマネジメント学会などでは、数10件の発表のなかに1、2件、クリティカルチェーンの報告があったりする。TOC/CCPMのその後の消息については、必要があれば、改めて調べてみたいと思っている。

*2:細かくいうと、ボトルネック・バッファーとかリソース・バッファーとかあるのだが、ここでは省略する。

*3:サッチマン, L. A.(著), 佐伯眸(監訳)(1999)『プランと状況的行為』産業図書株式会社, p.i

*4:CCPMの解説書のなかで、著者のRobert C. Newboldが興味深い計画論を述べているので、ここにメモしておく。Newboldは、プロジェクト計画の目的はプロジェクトについての理解を深め、それを伝えることであるという。「計画は、プロジェクト実行の前と実行段階で意思決定を支援する手段として作成され、理解を深める手助けをする意味を持つ。それらは理解を伝えることによりコントロールする手段として作成される」といっており、プロジェクトのコースを示すものだとはいっていないのである。「マネジャーのなかには、計画が”正確”にならないので計画できる点がほとんどないと感じる人がいる。計画が作られた後でも、それは重要でないとか、無意味なものとさえ扱われる。一方で別の人は、計画とは常に限りなく正確なものと感じていて、たとえ不確実で推量に過ぎない状態であっても、その推量が全く正しいように振る舞う。もちろん、”正確”さが”正しさ”を意味しないし、また反対に”正確”が”誤り”の意味でもない。われわれには、常に持っている知識と持っていない知識がある。その両方の知識を体系化することと伝達することは非常に重要である。知っていることは決定を下すための唯一の合理的な基礎を提供する。知らないことは、プロジェクトの終了までになすべきことを定義する。持っていない知識を誤って仮定したり、逆にそれをやり抜く能力もないと決めつけたりせず、できる限りの最善を尽くすべきである」(『時間に遅れないプロジェクトマネジメントー制約理論の応用ー』(2005), pp.118-119)。Newboldは、プロジェクト計画は、知っていることと知らないことを峻別し、明示し、その認識を関係者と共有するための手段だというのである。これは本ブログでこれまで見てこなかった計画論だ。一考の余地あり。

計画11:制約理論(TOC)(3)

このハイキングでは、製造ラインに関して、もうひとつの重要な発見があった。ラインのスピードは、ラインのなかで最も能力の低い工程のスピードによって決定される、ということである。

ハイキングで、子供たちは一列にならんで、目的地を目指して歩いた。主人公は最後尾を歩き、列全体を見守っている。子供たちのなかに、ハービーという、ほかの子供たちよりも歩くのが遅い子がいて、ハービーの前はどんどん先に進むが、ハービーの後はつかえる。そのため、列は前後にながく伸びて見守れなくなるし、全体のスピードは遅くなり、日暮れまでに目的地に着けるかどうかあやうくなってくる。

ハービーより前の子供たちがどんなに早く歩いても、それは列全体のスピードをあげるのになんの役にもたたない。列全体のスピードはハービーによって決定されるのである。これは前回のサイコロゲームでみた、「前工程から後工程に、プラス(進み)は引き継がれず、マイナス(遅れ)のみが引き継がれる」のと同じことだ。それをラインのスピードという観点からみると、「ラインのスピードは、ラインのなかで最も能力の低い工程のスピードによって決定される」ということになる。

そこで主人公は、ハービーの荷物を全員で手分けしてもつことでハービーの歩くスピードをはやめ、前の人を追い抜いてはいけないというルールをつくったうえで、ハービーに先頭を歩かせた。おかげで、無事、明るいうちに目的地に到着できた、という話しである。すなわち、いちばん能力の低いボトルネックが全体のスピードを決定しているのだから、全体のスピードをあげるには、ボトルネックの能力を高め、かつボトルネックを適切な位置に配置すればよい、ということになる。

こうして、『ザ・ゴール』では、「遅れのみが引き継がれる」ということと「全体の能力はボトルネックの能力に支配される」という、ハイキングでのふたつの発見を出発点として、TOCの概念が構築され、TOCをもちいて工場経営をみごと立て直す、という話しになる。

『ザ・ゴール』の5年後に書かれた『クリティカルチェーン』は、TOCをプロジェクトマネジメントに適用する話で、上記のふたつの発見のほかに、プロジェクトが必ず遅れる原因が4つあげられる。これらは「作業する側の心理的側面」*1に関する洞察であって、本ブログでいっている「行動経済学のアナロジーをプロジェクトマネジメントにあてはめる」議論へとつながっていく。その議論は次回するとして、まずプロジェクトが遅れる4つの原因をみておこう。以下の通りである*2

・学生症候群:バトンを受け取ってもすぐに走り出さない。
・マルチタスキング:寄り道をしながら走る。
・早期完了の未報告:ゴールに着いたのにバトンを渡さない。
パーキンソンの法則:要求された最低タイムで走る。

学生症候群」は、時間的余裕があたえられても、時間まぎわにならないと作業をはじめないという、人間の行動特性である。学生がテスト勉強や宿題をぎりぎりになるまで始めず、結局、一夜漬けに追い込まれる様子から命名された。プロジェクトマネジメントでいうと、それぞれのタスクにバッファー(時間的余裕)を見込んでスケジュールを組んでも、各タスクはぎりぎりになるまで開始されず、バッファーは無駄になり、プロジェクトは遅れる。
「セーフティが必要だと大騒ぎする。そして、セーフティをもらう。時間に余裕ができる。でも時間的に余裕ができたからといって、すぐに作業を始めない。じゃ、いつになったら作業に取りかかるのか。結局、ぎりぎり最後になるまで始めないんです。それが人間というものです。人間だからしょうがないんです。」(『クリティカルチェーン』p.190)

マルチタスキング」は、ひとつのタスクが完了していないのに、別の作業にとりかかることである。論理的で正当な理由があって行なう作業の掛け持ち(マルチタスキング)ではなく、個人的な思いや感情で複数のタスクに手をだす「悪いマルチタスキング」をいう。
「作業員みんなが複数のタスクを掛け持ちしている。そういう状況でプレッシャーがかかるということは、つまり何人もの人からあれをやってくれ、これをやってくれと、違う作業を求められるということだ。となると作業員は、どのタスクが本当に緊急なのかわからなくなって混乱するはずだ。」…「そのとおりなんです。優先順位は、誰がどれだけ大きな声を出したかで決まるんです。」(『クリティカルチェーン』p.191)
マルチタスキングの問題は、タスクの段取りにかかるアイドル時間や、経験曲線効果の問題だけではない。そういったことを抜きにして考えても、継続してやれば10日で終わる作業を半分やった時点で他の作業が入り、たとえば10日かかったとすると、残りの半分をそのあと再開することになるので、10日で終わる作業に20日かかることになる。つまり、リードタイムは倍になるのである。

早期完了の未報告」とは、タスクが計画より早く終わっても報告をせず、納期になるまで次工程に引き渡さないことをいう。タスクを早く終わらせても担当者個人にメリットがないときや、早く終わったことが次回の計画に反映されてしまうなどのデメリットが想定されるときに起こる。
「(予定より早く作業が終わったとしても、次の作業は)もともと予定していたタイミングでスタートします。予定より早く作業を終わらせても、最初のステップはそれを報告しないからです。現状の仕組みでは、作業を早く終わらせても何もご褒美はないんです。いやそれどころか、ペナルティが課されます。もし作業を早く終えたら、上はできるものだと思って、次からは時間を短縮しろとプレッシャーをかけてきます。」(『クリティカルチェーン』p.184)

パーキンソンの法則」は、英国の歴史学者政治学者 C. N. パーキンソン(1909年-1993年)が提唱した、「仕事は与えられた時間を使い切るまで膨張する」という法則である*3
「2週間かかると言えば、実際には2週間ちょっとかかる。そこでセーフティタイムを足して3週間に伸ばす。しかし3週間かかると言えば、3週間ちょっとかかる。つまり期間を見積もると、それに甘んじてしまって作業も遅れてしまうのよ。」(『クリティカルチェーン』p.76)

クリティカルチェーン』では、これらの洞察をもとに、クリティカルパス(PART/CPM)の欠点をおぎなった「クリティカルチェーン」が提案される。
たとえば、通常の所要期間見積では、各タスクにバッファー(時間的余裕)を見込んで見積もりをおこなうが、クリティカルチェーンでは、各タスクにはいっさいバッファーを見込まず、ぎりぎりの時間で見積もる。なぜなら、上記の4つの理由から、バッファーを見込んでもそれは無駄になるから。そのかわりに、作業の合流地点とプロジェクトの最後にバッファーをおき、個々の作業の進捗ではなく、バッファーの消耗状況でプロジェクト全体の進捗を管理する。また、各タスクにはバッファーがないので、各作業員は、前工程から作業をうけとったら全速力で作業を進め、終わりしだい次工程に引き渡す。これは、バトンを受け取ったらすぐに走り出し、ゴールに着いたらすぐにバトンを渡すことから、「リレー走者の原理」と呼ばれる。詳細は割愛するが、これがクリティカルチェーン・プロジェクトマネジメント(CCPM)である。
小説では、大学講師である主人公が学生たちとの議論を通じて考案したCCPMが広く企業に受け入れられ、あやうくなっていた大学経営をたてなおす、という話しにつながっていく。

ということで、TOC/CCPMの主要な論点は紹介し終わったので、今回はここまでとする。
次回は、プロジェクトマネジメントに人間の心理に関する洞察をとりこもうとした事例としてのTOC/CCPMについて考えて、TOC/CCPMの最終回としたい。

では、また。

*1:クリティカルチェーン』p.250

*2:西原隆、栗山潤(著)(2010)『TOC/CCPM標準ハンドブック:クリティカルチェーン・プロジェクトマネジメント入門』秀和システム, p.131

*3:他にもいくつかある。第1法則:仕事は与えられた時間を使い切るまで膨張する。第2法則:経費は収入に見合うだけかかる。第3法則:拡大は複雑化をまねき、複雑なものは最後には朽ち果てる。第4法則:作業グループの要員は作業内容にかかわらず増加する。(R.C. Newbold(著)、石野福弥(監訳)(2005)『時間に遅れないプロジェクトマネジメントー制約理論の応用ー』共立出版株式会社, p.29)