プロジェクトマネジメントを哲学する

計画は幻想だ、PDCAは気休めだ、などなど

計画21:漸増主義(インクリメンタリズム)(3)

リンドブロムがいう「合意形成は必要ない」というのは、正確には、合理主義的アプローチが要求するような、究極目標とそれにいたる手段のすべてについて合意を形成することは、できないし、やろうとするべきではない、ということである。それにかわって、リンドブロムは「相互調整」の重要性を強調する。

人間の限定合理性のゆえに、分析が完全に正しくおこなわれることはない。分析はつねに不完全である。そして、リンドブロムによると、政策立案における分析はつねに多かれ少なかれ分析者や意思決定者による「党派的分析」(partisan analysis)であり、偏っている。ちなにみ、谷聖美は partisan analysis を「自己中心的分析」と訳している。

分析が党派的、自己中心的でしかありえないのであれば、究極的な目標やそのための手段について合意を形成しようとするのは非現実的である。そうであれば、究極目標を一致させようとするのではなく、目の前の具体的かつ単一の政策案についてのみ合意し、それ以上のことを追求する必要はないし、するべきではない。それ以上のことは、漸増主義のシステムそれ自体がもっている調整メカニズムにゆだねるべきだとし、リンドブロムはこのメカニズムを「党派的相互調整」(partisan mutual adjustment)と呼んだ。

この相互調整は、前回みた漸増主義のプロセス、すなわち、政策の結果を後のプロセスにゆだねる、試行錯誤をくりかえす、脱落した手段や問題を復活させるといった、「みずからの主張を実現するために他者が提案する修正可能な決定を受け入れるプロセス」のなかでおのずとなされる*1。つまり、合意形成が合理主義が要求するフォーマルな制度であるとすると、相互調整は漸増主義というシステムそれ自体がもっているインフォーマルな調整メカニズムなのである。市場が「見えざる手」によって自動調整されるように、漸増主義においては政策が「相互調整」によって自動調整されるのである。

このように考えると、合意は意思決定の前提条件でも必要条件でもない、ということになる。合意は意思決定の前ではなく、後になって形成されるのである。それゆえ、漸増主義にしたがうとき、人々のあいだの価値観の相違は問題にならない。

いわば、リンドブロムは、多様な要求に対する希少な資源の配分を、システムそれ自体がもっている調整メカニズムにゆだね、そうすることで合理主義的アプローチの非現実性を克服し、実践的であろうとしたのである。そこにみられるのは、予測や分析、それにもとづく「計画」に対する深い懐疑であり、人々や集団がみずからの要求を追求するうえでおりなす相互調整に対する深い信頼である(岸田・田中(2009), p.294)。

以上で3回にわたったリンドブロムの漸増主義を終わりにする。なお、この3回の内容はその多くを谷(1982)*2と岸田・田中(2009)*3に負っているが、いちいち出典を付記すると煩雑になるので、直接的な引用以外については出典はしめさなかったことをことわっておく。

ということで、リンドブロムは muddling through を逆手にとって、その正当性を体系化したわけだが、とはいえ、漸増主義の「現状追認感」*4と、そのプロセスの「行き当たりばったり感」は否めないのではないだろうか。そのためか批判も多かった*5

このような批判を背景に、あるいは批判の一端として、J. B. クインは「論理的な」漸増主義を提唱した(クインは "logical incrementalism is not muddling" といっている)。ということで、次回はクインの論理的漸増主義(Logical Incrementalism)をみることとする。
クインのあとは、ごく少数の政策案を合理主義的に分析し、それ以外の政策案は漸増主義でいくという、A. エツィオーニの混合走査法モデル(Mixed Scanning Model)をみる。

では、また。

*1:このとおり、相互調整はなんらかの形でギブアンドテイクであり、したがって相互調整は互酬的(reciprocal)でもある。この互酬は、不等価交換を排除するものではなく、また恩恵に対する見返りの多くが将来に対する期待というかたちをとる(谷(1982), p.348)。つまり、互酬も時間的に分散(disjointed)しているのである。

*2:「政策決定論の展開と課題:合理主義的アプローチの分解をめぐって(2)」, 谷聖美,『岡山大学法学会雑誌』32巻2号(1982年11月)

*3:経営学説史』, 岸田民樹・田中政光, 株式会社有斐閣, 2009年.

*4:役所の予算編成が前年度実績をベースに増加割合を決定していることをもって漸増主義の一例とする、漸増主義に支持的でありながら、漸増主義を矮小化したような議論がある。しかしこれは同時に、漸増主義はそういう現状を容認する保守的な記述モデルにすぎないという批判をうんでいる。

*5:上記脚注4および前回の脚注4参照。

計画20:漸増主義(インクリメンタリズム)(2)

前回は、政策策定が、規範としては合理主義的であることが求められているが、現実には漸増主義的アプローチでおこなわれている、というリンドブロムの現状分析を見た。今回は、この現状分析をもとに体系化された、方法論としての漸増主義を見ることとする。

リンドブロムの漸増主義(インクリメンタリズム)の方法論は、前回みた合理主義批判の裏返しになっている。そこで、以下、漸増主義と合理主義を対にしてその方法論をしめす。漸増主義の部分がリンドブロム(1979)*1からの引用、括弧のなかの合理主義の部分がブログ筆者によるものである。

1.少数のなじみのある政策案に絞って分析する(可能なすべての代替案を分析するのではない)。
2.達成すべき政策目標や価値を、実際の問題の経験と一体的に分析する(あるべき姿としての目標をさだめ、それを達成するための政策を考えるのではない)。
3.目前の問題の改善を第一に考える(理想にむけた大幅かつ根底的な変更を目指すのではない)。
4.試行錯誤や修正をくりかえす(設定された目標にむかって一直線に進むのではない)。
5.代替案がもたらす結果のうち、とくに重要なものについてのみ分析をおこなう(すべての結果を分析するのではない)。
6.政策立案にあたっては、多くの賛同的関係者*2にその分析作業を分散させる(特定の政策立案者だけが政策立案をおこなうのではない)。

リンドブロムは、これを「単純化と焦点化の戦略*3」と呼び、意思決定が時間的にも空間的にも分散しているところから、このアプローチを分散的漸増主義(disjointed incrementalism)*4と名づけた。

政策立案における合理主義的アプローチがあるべき姿を示す「規範モデル」であるのに対して、リンドブロムの漸増主義は現状を説明した「記述モデル」と認識されることが多かった。そのため、リンドブロムの漸増主義は、現状を説明するには優れたモデルだが、現状を容認しているにすぎないという批判も少なくなかった*5

しかし、前回の冒頭でもふれたとおり、リンドブロムは、漸増主義的アプローチこそが政策の合理性を確保するのであり、政策立案の指針をしめす規範モデルであると主張した。すなわち、以下のようにして、漸増主義的アプローチは政策の合理性を確保するのである*6

1.現行秩序のなかでの比較的小さな変更に限定されるため、分析*7にともなう困難が小さくなる。
2.検討範囲が狭まるため、代替案に関する知識が大きくなる。
3.政策の結果を予測することが難しい場合は、その結果を無理に決めることなく、その後のプロセスにゆだね、そのなかで修正できるようにするため、現実的に実行可能な手段だけが保持される。
4.試行錯誤をくりかえすなかで脱落していった手段や問題にも、復活のチャンスが残される。
5.直前の結果が方向性をたえず検証するだけでなく、方向性を明確にするため、論理的に「誤り」を最小化することができる。
6.そうしたフィードバックの結果として、一から始める場合とは違い、探索のための多大な時間とエネルギーをついやす必要がなくなる。
7.状況の変化や時の経過にともなって次々とでてくる出来事やアイデアを、合理主義的アプローチは排除するが、漸増主義的アプローチは最良の資源として活用する。
8.それゆえ、過去の間違った決定を取り返しのつかないものにすることなく、修正することができる。
9.それゆえ、政策はつねに修正・更新され、そのたびに過去に却下された代替案や価値が復活するチャンスがある。
10.それゆえ、政策立案にさいして関係者全員の合意形成をはかる必要がない*8。なぜなら、過去に却下された代替案や価値が復活するチャンスがつねに準備されているからである。

さて、合意形成は必要ない!という衝撃の言明がなされたところで、今回はここまでとする。
次回は、合意形成不要論に関連して、漸増主義の背景をなす「相互調整論」をみて、リンドブロムの終わりとしたい。
では、また。

*1:Lindbrom, C. E. (1979). "Still muddling, not yet through," Public Administration Review, Vol.39, No.6, pp.517-526.

*2:partisan participants

*3:simplifying and focusing stratagems

*4:disjointedは、分節的(橋本(1962)*、谷(1982)*)や分割された(岸田・田中(2009)*)などとも訳されるが、ここでは分散的と訳した。というのは、リンドブロムが disjointed の説明にさいしてしばしば fragmented という言葉を使っており、分節や分割よりも、ばらばらに散らばっているイメージが強いためである。なお、disjointed は、本来、支離滅裂な、ばらばらな、ちぐはぐな、など、否定的な意味でもちいられる言葉である。Oxford Reference* は disjointed incrementalism に関して否定的な解説をおこなっている。すなわち、disjointed incrementalismは、全体を検討せず、要素を個別に検討するため、正当性に欠け(less justifiable)、そのため、サラミ政治(salami politics)と揶揄される。サラミはたいていスライスして食べるからである。
*「政策立案における官僚行動」, 橋本信之, 『年報行政研究』1986 巻 20 号, p.133-158.
*「政策決定論の展開と課題:合理主義的アプローチの分解をめぐって(2)」, 谷聖美,『岡山大学法学会雑誌』32巻2号(1982年11月).
*『経営学説史』, 岸田民樹・田中政光, 株式会社有斐閣, 2009年.
* Oxford Reference; https://www.oxfordreference.com/display/10.1093/oi/authority.20110803095721690

*5:「自由・公正・秩序(1)」, 武智秀之, 人文学報 No.281(社会福祉学13)1997, p.108.

*6:以下、岸田・田中(2009)による

*7:リンドブロムは「計算」と言っている。前回の脚注11でいう意味での「計算」である。

*8:PCMの使い手のみなさん、あるいは参加型開発の実践者のみなさん、「合意形成は必要ない!」のです!

計画19:漸増主義(インクリメンタリズム)(1)

ということで、ここからは漸増主義的計画をみていく。
今後の流れとしては、リンドブロムの漸増主義、クインの理論的漸増主義、エツィオーニの混合走査法の順で、漸増主義的計画の基本的な考え方を確認し、その後、アジャイル、OODA(ウーダ)、RRI/PDIAといった具体的な計画手法をみることとする。

まずは、チャールズ・リンドブロム(Charles E. Lindblom、1917年2018年)の論文「The Science of "Muddling Through"  」(1959年)をみる*1。Muddling through は、字面からわかるとおり、泥(mud)に足をとられながら、どうにかこうにかして切り抜ける、という意味である*2

リンドブロムは、従来、規範として合理的・総覧的(synoptic)におこなわれるべきであり、建前上はそのようにおこなわれているとされてきた行政の政策立案が、現実には部分的な修正や変更を繰り返す漸進的*3なプロセスであることを明らかにした。そして、実はこの漸進的プロセスこそが政策の合理性を確保しているのだと主張した。

合理主義的政策立案プロセスは次のようなものである*4

1.実現すべきすべての価値(完全雇用、事業収益など)をリストアップする。
2.これらの価値を最大化しうる政策をすべて洗い出し、それぞれの政策を実施した場合の成果(outcome)を特定し、個々の政策の概要をかためる。
3.これらの政策を一定の比較基準をもちいて比較し、諸価値の達成度が最大になる政策を選ぶ。*5

リンドブロムは、このようなアプローチは、人間が持ち合わせていない認知能力や情報を前提としており、ごく単純な問題に関してはいざしらず、複雑な問題に適用するのは不可能だと断じた*6

実際のところ、リンドブロムの観察によると、行政官はこのような方法で政策を立案していないし、行政機関は職員にそのようなことを期待していない。現実の政策立案は、意識的か無意識的かに関わりなく、典型的には、以下のようなプロセスをたどる*7

1.現実の差し迫った価値を残し、それ以外の価値は無視する。残された価値については比較考量をおこなわない。
2.これらの価値を実現するための政策を数案*8立案する。これらの政策案は、立案者の過去の経験や知見からその結果が予見できる程度に小さなものである。
3.これらの政策によって実現される価値と、それを実現するための手段を一体のものと考え、その実行可能性を比較し、最終案を選ぶ*9

このようにして選択された政策は、小さな部分的な改善をめざすものであるため、状況や要請の変化に応じて適宜、改訂・更新される。すなわち、このアプローチは小さな政策による小さな改善を終わることなく継続していくアプローチなのである。すなわち、現実に足をとられながら、一歩一歩、どうにかこうにか進めていくような、muddling through なプロセスなのである。

上記のとおり、合理主義的アプローチは人間の能力をこえた理想形であり、実行不可能である。にもかかわず、完全合理的な経済人を前提とした経済学がそうであったように、行政学においても合理主義的アプローチが規範とされてきた。そして、さまざまな分析・計画手法が完全合理性を前提に考案された。すなわち、オペレーションズ・リサーチ、統計的意思決定理論、システム分析、PERT*10などなど*11

さて、ここまでは現状分析である。論文の後半は、現実において意識的・無意識的におこなわれている漸増主義的アプローチを理論化・体系化する展開となる。

 

今回はここまでとする。
次回は、リンドブロムが理論化・体系化した漸増主義(インクリメンタリズム)を見る。
では、また。

*1:H. サイモンが『Administrative Behavior』で「限定合理性」の概念を提起したのが1947年なので、「Muddling Through」(1959年)が発表されたのはその12年後になる。同論文の人間の合理性の限界に関する認識はサイモンのそれにきわめて近い。しかし、サイモンへの言及はわずかに脚注2か所に見られるだけである。もう少し言及があってもよさそうに思うのだが、そのあたりの消息はわからない。

*2:英語の muddle の当初の意味は「泥の中で転げまわる」で、中期オランダ語の「泥をはねかける」の反復動詞 moddelen に由来する。(「英語語義語源事典」2004年、三省堂

*3:Incremental を漸増的と訳すか漸進的と訳すか迷っている。計画や政策の部分的修正は増分するわけではないので「漸進的」がふさわしいだろうと思う。プロジェクトも、漸増するのではなく、漸進するというべきだろう。一方で、原語の incremental(>increase)を尊重すると「漸増的」と訳すべきかとも思う。とりあえず、決心がつくまでは、文脈に応じて使い分けることとする。

*4:Lindblom, 1959, p.79

*5:これは、先にサイモンのところ(計画5)でみた、人間が真に合理的な意思決定をするための要件にきわめて近い。再掲する。
1.意思決定にさきだってすべての選択肢をパノラマのように概観できる。
2.それぞれの選択肢を選んだ場合に起こるであろう結果をすべて考慮できる。
3.全選択肢のなかからひとつを選ぶ基準となる価値体系をもっている。
そしてサイモンは、人間はこれらの要件を満たしていない、と断じた。

*6:この部分は、サイモンの良構造問題と悪構造問題の議論を思い起こさせる。

*7:Lindblom, 1959, pp.79-80

*8:原語は "relatively few policy alternatives"、つまり「比較的少ない数の政策案」。

*9:合理主義的政策立案においては、手段と目的はそれぞれ独立したものと考えられ、まず目的が特定され、次にそれを達成するための手段を考えるという、手段-目的分析がおこなわれる。しかし、実際におこなわれている漸増主義的政策立案においては、「手段と目的は一体のもので、両者は同時に立案される」という。しかし、同論文にはこれについての具体例をあげた説明がなく、リンドブロムがどのような状況を想定していたのかわからない。おそらく、人間は、なんらかの先験的価値観から目的をさだめ、しかるのちにそれを達成する手段を考えるのではなく、現実には、なんらかの利用可能な手段をみつけ、その手段によって達成可能な目的をとりあえずの目的とするという、そういう意味での「手段と目的は一体のもの」なのではないかと思われる。確認できたら、また報告します。

*10:PERTが出てきて驚いた。なお、オペレーションズ・リサーチなどとならんでPERTが挙げられたのは、「Muddling Through」(1959年)ではなく、その20年後に書かれた「Still muddling, not yet through」(1979年)においてである。

*11:「そもそも問題自体をどう特定するのかさえ一義的には語れない。合理モデルに立つ者たちは、決定を下すべき問題は所与であるとして、そのあとの計算について語るだけだが、実は問題をどう特定化するかこそ決定プロセスの第一段階なのであり、それは合理的計算からはとうてい導かれないものである」(谷聖美, 1982, p.345*)。つまり、上記の完全合理性を前提に考案された分析・計画手法が、ここで言われている「計算」である。ちなみに、問題を特定するのが難しいのは、問題が、人間とある事象との関係をいうものだからである。「雨が降らない」という事象は、農民にとっては問題だが、観光業者にとっては問題ではない。つまり、「雨が降らない」という事象それ自体は良いことでも悪ことでもない。たんなる天候の一形態にすぎない。だが、それが人間にかかわってはじめて問題となる。そして、人間にはさまざまな立場・価値観の人間がいる。だから、とくに政策のような不特定多数の人間にかかわる場合、問題を特定するのは難しいのである。
*「政策決定論の展開と課題:合理主義的アプローチの分解をめぐって(2)」, 『岡山大学法学会雑誌』32巻2号(1982年11月)

計画18:合理主義的計画から漸増主義的計画へ

ということで、ここまでの議論と今後の見通しを概観しておく。
ここまでの議論で、われわれは合理主義的計画の限界を確認してきた。
中俣・郡司(1992)*1によると、合理主義的計画は、ある意味で、複雑なことがらを管理可能なかたちに単純化する作業である。それゆえ、その計画は現実の不完全で過度な単純化であり、総合的でない、と批判されることがしばしばあった*2。そこで、この批判をうけて複雑化と総合化につとめると、今度は逆に、合理的な計画はますます作成困難となり、実効性もいっそうあやしくなる。中俣らはこれを「合理性についてのジレンマ」と呼んだ。
 
本ブログでは、この認識から出発して、合理主義的計画にはそもそも看過しえない限界があることを、サイモン、ゴールドラット、サッチマンをとおして見てきた。
サイモンによると、そもそも人間の合理性は限定的であり、見通せるのはせいぜいのところごく近い将来までである。したがって、長期にわたる実際の行動についての詳細な青写真をつくるのは明らかに無意味である。
ゴールドラットによると、プロジェクトは前工程に依存するタスクの連なりであり、各タスクの処理能力にはばらつきがあるため、プロジェクトは必ず遅れる。加えて、学生症候群等の人間の行動特性・心理特性のため、計画に余裕を見込んでも、それは活かされない。
サッチマンによると、人間の行為は状況との相互作用からうまれるものであり、計画にもとづいてなされるものではない。計画は、状況に対応した行為をおこなうための判断材料にすぎず、いかなる意味においても行為の進路を決定するものではない。
 
こうして、合理主義的計画の限界は明瞭に、そして原理的に、示されてきた。したがって、われわれがとるべき態度は、合理主義的計画をナイーブに計画したり前提したりしないこと、すなわち合理主義的計画を批判的に見る、という態度である。われわれ自身の合理性の限界、われわれ自身の非合理性から目をそらさない、ということである。
これは合理性の否定ではない。ものごとを進めていくうえで、合理性は必要だ。そのうえで、なお非合理性から目をそらさないということは、「非合理性を合理性へと再び取り込む議論」*3なのである。みずからの合理性の限界を明確に意識したうえで、その限界内において合理的であることを目指すということである。
したがって、計画が不要なのではない。計画はたてる。最終目的や押さえないといけないところは押さえる。ただし、それをみずからの合理性の限界内においてのみ有効なものと認める、ということである。もっとくだけた言い方をすれば、計画はたてるが、それに固執せず、可能な限り柔軟に進めていく。目的への道筋だけではなく、目的それ自体に関してすら、変更を恐れない、ということである。これが漸増主義的計画につながっていく。
 
「計画を疑って、いったいどうやって仕事をすすめていくのか?」というのはもっともな疑問だ。われわれは合理主義的計画にどっぷり浸かってきたので、頭を切り替えるのが難しいのだ。だが、じつは漸増主義的計画はかなり以前から、合理主義的計画に対するアンチテーゼとして提唱されてきている。たとえば、ITプロジェクトではスクラムに代表されるアジャイル・アプローチ、軍事利用からスタートしビジネスやスポーツなどでも応用されるようになったOODA(ウーダ)、開発援助ではRRI(Rapid Result Initiative)やPDIA(Problem-Driven Iterative Adaptation)などなど*4
 
本ブログでは、次回以降、これらの漸増主義的計画を見ていくことになる。ただ、例によって、たんなるツールの紹介にとどまるのではなく、その基本的考え方、思想的背景を見ていく。だって、このブログは「プロジェクトマネジメントを哲学する」だから。
ということで、次回は政策立案の立場から漸増主義を唱えた C. リンドブロム の有名な論文 The Science of "Muddling Through" を読みます。Muddling Through とは、「どうにかこうにかして切り抜ける」という意味です。
 
では、また。

*1:中俣和幸・郡司篤晃(1992),「わが国における保健医療計画の基本的問題についての検討(1)―計画とは何か」,『公衆衛生』Vol. 56 No. 11.

*2:PCMの使い手のみなさん、覚えていますか? PRA/PLAが出てきたときも、システム思考が出てきたときも、これらの陣営から、「PCMは過度な単純化をおこなっている」と批判されました。つまり、PCMは、合理的計画を立案するために、さまざまな現実の事象を捨象して単純化する手法、すなわち典型的な合理主義的計画なんですね。

*3:一ノ瀬正樹, 『非合理性』(L. ボルトロッティ, 2019年, 岩波書店)解説, p.195. 「おそらく、カーネマンらが創始した行動経済学という学問そのものが、人間の非合理性を合理性へと回収することをもくろんだ活動なのだと言ってよいように思われる。」

*4:同業者のみなさん、日本の開発援助業界で一時よく耳にしたPRODEFIモデルも、提唱者自身が自覚していたかどうかは分かりませんが、この手の漸増主義的モデルです。本ブログで紹介するつもりはありませんが。

計画17:H. サイモンの計画論

ここまでの議論は、H. サイモンの限定合理性を出発点として、E. ゴールドラットの制約理論によって計画が必ず遅れることを確認し、L. サッチマンの状況的行為論によって計画が状況判断の材料にすぎないことを見てきた。

今回は、その出発点にもどり、限定合理性をとなえたサイモンが「計画」をどのように見ていたのかを確認する。結論を先に紹介してしまうと、要は、人間の合理性がおよぶ範囲のごく短期の計画は有効だが、それより遠い未来に向けた計画は「期待」にすぎない、というものである*1

なお、今回おもに引用する『組織と管理の基礎理論』(1977年)*2では、サイモンは計画を「将来についての提案、代替的提案の評価、およびこれらの提案の達成方法にかかわる活動」(サイモン他, 1977, p.361)と定義している。つまり、これからおこなう活動(提案の達成方法にかかわる活動)にとどまらず、その事業をおこなう意義や目的(将来についての提案)と代替案との比較(代替的提案の評価)をふくめ、広く定義していることをことわっておく。

いきなりだが、引用。「われわれが計画しようとしているタイム・スパンが長ければ長いほど、その過程は困難になる。もしわれわれが今日ないしは明日のためにのみ意思決定をするのなら、われわれはわれわれの選択を既知の条件および現在の状況に適合させることができる」(サイモン他, 1977, p.364)。つまり、冒頭に書いたとおり、われわれの合理性がおよぶ範囲のごく短期の計画は有効だが、それ以上の未来に向けた計画の実行は難しいというのである。

「それではなぜ組織はその決定を危険かつ不確実な将来にまで及ぼそうとするのであろうか」(同, p.364)。なぜなら、「組織が計画を余儀なくされるのは、主として、今日なされた決定および今日実行された活動が明日利用しうる選択肢を限定するからである」(同, p.364)。たとえば、新しい汚水処理システムを建設する場合、それはたんに明日の汚水を処理するためではなく、そのさき数十年にわたる汚水処理のためであり、そのために組織は長期にわたる計画を立てなければならなくなるのである。

これは埋没費用(サンクコスト)(すでに支払ってしまい、取り返すことのできない金銭的・時間的・労力的なコスト)*3の問題である。すなわち、設備への過大な投資による将来における無駄や、過小な投資による将来における追加投資を考慮すると、長期的な計画がどうしても必要になるのである。そして、埋没費用をうまない組織の事業はまれであるため*4、組織は長期計画を重視する。

「組織が計画を重視するのは、ほとんどの場合それは不可能であるが、将来がなんらかの程度の正確さでもって推測しうると確信しているからではなく、あてずっぽうや偶然に代わりうる唯一の代替案として将来はできるだけ正確に予測されなくてはならぬ、と考えているからである」(同, p.365)(下線は原著)。

だが、残念ながら、すでに見たとおり、人間の合理性は限定的であり、問題は悪構造問題であるため、問題解決は、大きな悪構造問題を人間の合理性で対応可能な小さな良構造問題に分割し、少しずつ、ひとつずつ、解決していくしかないのである。にも関わらず、われわれは長期計画をたてる。そして失敗する。

「多くの計画が有効でなく、その主たる理由が計画者が自ら設定した問題の困難さを認識しそこなうことにあるということは疑いの余地がない。(中略)計画は、計画者が問題の大きさを認識する程度、および計画によってなにをなしうるかについて適当な謙虚さを持って出発する程度に比例してのみ成功するように思われる。」(同, pp.385-386)。つまり、成功するのは短期計画なのである。

「計画は、おそらくそれが行為にほんの少し先立つ思考に密着してつくられるとき、もっとも成功するであろう。人は絶えず自己の満足に対する障害を認識し、それらを克服する方法を工夫する。彼は一つの障害を克服するや否やもう一つの障害を認識する。彼の注意はこれらの障害の認知によって統制される。また、彼はそれらを認知すると、それらを打破すべく行動を起こす。この短期的な計画および行為は、おそらく人間の計画が最大の成功を納めうる領域であろう」(同, p.386)。それゆえ、長期にわたる詳細な計画をたてることに意味はない。

「目標を達成しあるいは障害を克服するために、実際の行動についての詳細な青写真をつくるのは明らかに無意味である。なぜなら、われわれは現在それらの具体的な目標を持っていないし、障害がどのようなものであるかを知らないし、またその中において将来の行動がなされる諸条件の性質を知らないからである」(同, p.387)。すなわち、サイモンも、サッチマンと同様、われわれがなすべきことは計画の精緻化ではないといっているのである。サイモンは、計画を精緻化することでわれわれは将来を「期待」しているにすぎない、という。

「もちろん、行動している主体は、彼の行動から生ずる将来の結果を直接的に知ることはできない。もし、彼が知ることができると仮定するならば、ある種の逆の因果関係がここで働いていることになる――将来の結果が現在の行動の決定要因になってしまうであろう。彼がしていることは、将来の結果についての期待である」(サイモン, 1989, p.365)*5(下線は原著)。

まとめると、冒頭で紹介したとおり、人間の合理性がおよぶ範囲のごく短期の計画は有効だが、それより遠い未来に向けた計画は「期待」にすぎない、ということになる。

 

以上、サイモン、ゴールドラット、サッチマンをつうじて合理主義的計画の限界をみてきた。1年かかった。これだけ詳細に見れば十分だろう。ということで、次回から、反合理主義的計画ともいうべき、漸増主義的計画を見ていくことにする。

次回は、合理主義的計画から漸増主義的計画への橋渡しとして、本ブログのこれまでとこれからを概観しておきたいと思う。ある人から、「計画を否定されても困る。計画なしでどうしろというのか」という質問を受けた。そうだった。筆者の頭のなかには全体の見取り図があるが、それがない読者にとっては、今なにを見せられているのかわからないだろう。なので、次回は本ブログのこれまでとこれからについてざっと概観してみようと思う。

では、また。

*1:経営学者の原田勉氏がアップルを訪ねた際の話し。アップル側案内者の「当社では、3ヵ月計画を事業計画といい、1ヵ年計画を中期計画と呼ぶ」という説明に対して、原田氏は、「それでは、日本企業で一般的な3ヵ年計画や5ヶ年計画といった中期計画は何と呼ぶのか」と尋ねた。それに対する返答は、「それはドリームと言います」というものだったそうである。(『OODA LOOP(ウーダループ)』C. リチャーズ著、原田勉訳、2019年、東洋経済新報社、p.318)
また、2023年8月24日(木)の朝日新聞朝刊で、食品大手の「味の素」が、3年おきに策定していた中期経営計画の廃止を決定したことが報告されていた。インタビューに対して藤江社長は、「(計画期間の)3年の間に経営環境は大きく変わり、計画の意味が薄れることがある。計画策定に使う力を違うところに使った方がいい」と語っている。同記事中の一橋大学の円谷昭一教授によると、「3~5年間の数値目標を設定する中期経営計画は日本企業に見られる独自の慣行」とのことである。

*2:Simon, A. H., Smithburg, D. W., and Thompson, V. A. (1950). Public Administration. New York: Alfred A. Knopf Inc. 邦訳:サイモン, H.A., スミスバーグ, D.W., トンプソン, V.A.(共著)、岡本康雄・可合忠彦・増田孝治(共訳)(1977)『組織と管理の基礎理論』ダイヤモンド社.

*3:Sunk cost:投資、生産、消費などの経済行為に投じた固定費のうち、その経済行為を途中で中止、撤退、白紙にしたとしても、回収できない費用をさす。経済学の概念であり、「埋没費用」と訳される。個人の株式投資、企業の新規プロジェクト、政府の大型公共事業など広範な経済活動を継続するのか、それとも中止するのかを判断する際などに使われる。本来、サンクコストは回収できない費用なので、将来の意思決定には影響しない。しかし一般に人間は投下額が大きいほど、もとを取り戻そうとする心理が働き、経済行為を中止できない傾向がある。たとえば、イギリス・フランス政府共同の超音速旅客機「コンコルド」開発計画では、開発途上から赤字になることがわかっていたが、投資額が巨額に上ったため開発をやめられなかった。(小学館日本大百科全書(ニッポニカ)」より。)

*4:個人の事業でも埋没費用をうまないものはまれである。買い物、旅行、プロ野球観戦、ラーメン屋での行列などなど、いずれも埋没費用をうむ。

*5:サイモン, H.A.(著)、松田武彦・高柳暁・二村敏子(共訳)(1989)『経営行動:経営組織における意思決定プロセスの研究(第3版)』ダイアモンド社.

計画16:計画と状況的行為(4)

Suchman (1987) の実践的含意は、認知科学のプランニング・モデルに対する批判にあった。プランニング・モデルは、計画を、あらかじめ想定された目的を達成するために必要な一連の行為の流れをしめしたものとみなす(p.28)。これは、われわれの多くが「計画」と聞いたときに思い浮かべるイメージである。そして、本ブログのこれまでの議論にひきつけると、これは「合理主義的計画」である。これに対して、サッチマンは、計画はそのようなものではない、という。

「プランニング・モデルは、計画を、行為者の頭のなかにあって彼または彼女の行動を方向づけている何か、としてあつかう。それに対して私は、プランニング・モデルにもとづいて作られた人工物は計画と状況的行為を混同していると論じ、それにかわって、計画を、行為をもっともらしく説明する、行為の先行条件と結果の記述とみなすことを提唱する。行為について語る方法として、計画は、状況的行為の実際の進行を決定するものでもなければ、適切に再構成するものでもない」(p.3)。

ここで、計画が行為の結果を記述するとか再構成するといわれているのは、計画が、将来において何をすべきかを説明するだけでなく、過去において何が起こったかを遡及的に説明する働きを負っていることを意味している。つまり、行為を振り返り、計画というフィルターをとおすことによって、状況対応的・文脈依存的な行為をノイズとして捨て去り(p.102)、行為を抽象化し、計画どおりにできたとかできなかったといった振り返り(評価)の材料にしたり、その後の行為(プロジェクト)の計画の材料にしたりする、ということである。(すなわち、PCMの使い手のみなさん、われわれがプロジェクト評価でやっていることです。)

一方、理論的含意はさまざまあるが、ここでは研究アプローチに関する提言を見ておきたい。サッチマンは、状況的行為を、行為者間の、または行為者と環境のあいだのそのときどきの相互作用をとおして起こる創発特性(emergent property)と考えることを提唱する(p.179)。創発特性とは、複数の要素からなるシステムにおいて、要素間の相互作用により、個々の要素がもっていない特性、個々の要素の総和にとどまらない特性が現れることをいう。つまり、ある状況のなかで、行為者をふくむさまざまな環境要素が時々刻々相互に作用しあい、個々の要素を超えたなにかが時々刻々うみだされる。われわれの行為はそういうものだというのである。

「この行為の創発特性は、行為があらかじめ定められてはおらず、かといってでたらめでもないことを意味する。だとすれば、状況的行為に関する基本的な研究目標は、行為の構造と物理的・社会的環境があたえる判断材料やその制約との関係を明らかにすることになる」(p.179)。

ここで思い起こされるのは、行動経済学の洞察である。すなわち、人間は限定合理的であるがゆえに経済合理的な行動をとらない。ただし、ただでたらめに行動するのではなく、一定の偏りをもって行動する。その偏りを明らかにし体系化してうまれたのが行動経済学だった。
かたや、状況的行為論の洞察はこうである。すなわち、人間の行為は抽象的・合理的な計画からうまれるものではない。ただし、人間はただでたらめに行為するのではなく、環境との創発的な関係において行為する。それゆえ、行為と環境からなる創発特性を明らかにすることによってこそ、人間の行為のありようは解明されなければならない。
このふたつのアナロジーをプロジェクト計画にあてはめることが、本ブログの当面の目標だが、今回は両者の類縁性を指摘するにとどめ、プロジェクト計画の議論はのちの回にゆずる。

最後に、同書の結論を紹介して終わりとしたい。
「以上の事例から、行為は、環境との相互作用からうまれるものであり、計画にもとづいてなされるものではないことがわかる。計画は過去の行為の抽象的表現にすぎないため、行為にさいして参考にはなるが、行為をみちびくものではない。計画の機能は、環境のなかで起こってくるさまざまなことにたいして、あるものは利用し、あるものは避けることが可能になるよう、われわれを手助けすることである。
計画はどこまでも緻密につくることができる。しかし、計画が上記のようなものであれば、計画はその程度に緻密であればよい、ということになる。状況を完全に予想することはできないし、状況はつねに変化しているため、計画は本来あいまいなものである。しかし、このあいまいさは計画の欠点ではない。このあいまいさは、そのつど偶発的に起こってくる事態にたいして、そのつど対応して行為が決定されるという事実にこのうえなくふさわしいものである。そうであれば、われわれがなすべきことは、計画を精緻化することではない。計画は過去の行為の抽象的表現であると理解すること、計画がどのような判断材料であるかを理解すること、そして、どうすれば計画と環境が生産的な相互作用の関係にいたりうるかを考えることである」(pp.185-188 より筆者編集)。

サッチマンは、われわれの計画観の根底からの見直しをせまっているのである。

 

以上でサッチマンの「計画と状況的行為」は終わりとする。
次回は、限定合理性をとなえたH.サイモンが計画についてどのように考えていたのかを見て、合理主義的計画批判の最後としたい。

では、また。

計画15:計画と状況的行為(3)

行為が状況的であることをしめすふたつめの例は、カヌーで急流をくだる話しである。サッチマンは、「計画は、状況に対応した行為をおこなうための判断材料であって、いかなる意味においても、行為の進路を決定するものではない」(p.52)という。
たとえば、カヌーで急流をくだろうとするとき、その人は滝のうえにしばしとどまり、くだりかたを計画するかもしれない。「できるだけ左のほうをいって、あのふたつの大きな岩のあいだをぬけよう。つぎのこぶのあたりは後ろ向きになって右にいこう」と。だが、その計画がいかに詳細なものであっても、実際にカヌーが急流をくだる際にはおよそ役に立たない。流れに対応したり、カヌーをあやつる段になると、人はみごとに計画を捨て去り、自身のありとあらゆる身体化された能力をたよりにするのである*1。「この場合の計画の目的は、カヌーに急流をくだらせることではない。そうではなく、その最終分析において、その人の成功がかかっているところの身体化された技能をもちいるための最善の可能な位置を得させるべく、その人をみちびくことにある*2」(p.52)。つまり、計画は、進むべき道をしめすものではなく、瞬間瞬間をのりきるための最善の態勢を可能にするためのものだというのである。このあとで、サッチマンは、「地図が世界をめぐる旅行者の動きを文字どおりの意味でコントロールするなどと主張することが馬鹿げているように、計画が行為をコントロールすると考えるのは間違っている」(p.189)と断言している。

3つめの例としてあげられているのは、フェイテルソンとステフィク*3が報告した遺伝学者たちの実験計画の話しである。ふたりの観察によると、遺伝学者たちがたてる実験計画は、実験のみちすじを秩序だてて組み立てたようなものではなかった。その計画は、せいぜいのところ、実験室のさまざまな制約を整理し、彼らがそのなかで作業をおこなう環境を明確化する程度のものだった。「実験者たちは、事前の分析をとおして実験を計画するのではなく、そのときどきの観察結果を彼らの研究目的に関係づけることで、次に何をするべきかを決めていた。実験者たちの専門知は、計画を遂行することにではなく、たえず仮説を立てつづける能力や、実験のなかでセレンディピティ*4を追究する能力にあった」(p.188)。

(PCM(Project Cycle Management)の使い手である同業者のみなさんに思い出話をひとつ紹介します。PCMがODA業界に導入された初期のころ、PCMは研究プロジェクトにも使えるか、という議論がありました。勉強会だったか、FASIDにモデレーターが集まって議論をしました。そこで、マグロの研究をしていた大学の先生(彼もPCMモデレーター)が、「研究は発見が目的であって、まえもってゴールを設定することは難しい。ましてPDMに書かれた活動を実行すればゴールが達成できるなどというものではない」という趣旨の発言をしました。彼が言いたかったのは、研究者が求めているのはセレンディピティだ、ということだったのかもしれません。だから、PCMのような線形的な計画は研究プロジェクトにはむかない、と。その後、PCMが研究プロジェクトに使われるようになったという話しは聞いていません。)

閑話休題。以上、これらの事例から、Suchman (1987)では、「計画は状況判断のための材料にすぎない」という仮説がたてられ、それを検証するために、同書の後半で、PARCの「かしこい」コピー機とその使用者のコミュニケーションがエスノメソドロジーの会話分析の手法によって詳細に分析される。結論だけ紹介すると、コピー機は使用者の意図とそれにもとづく行為を事前に推測してプログラミングされているわけだが、使用者は推測をこえたさまざまなレベルの質問を投げかけるため、機械と人間のあいだのコミュニケーションは破綻する。一例をあげると、コピー機はコピーのための手順をしめすが、使用者はその手順そのものの妥当性を問うような「メタ」な質問をし、コピー機は沈黙する。コピー機はたんに使用者の「適切な」反応を待っているだけなのだが、使用者はその沈黙の理由をさまざまに憶測する。なぜなら、人間どうしのコミュニケーションにおいては、沈黙はつねに語りの不在以上の意味をもつから(p.146)。そして使用者は途方にくれる、といった具合である。

 

以上が、 Suchman (1987) で紹介される、行為が状況的であることをしめす具体的な事例である。
次回は、同書の結論に関して考察し、「計画と状況的行為」の終わりとしたい。

では、また。

*1:この部分は計画不要論とうけとられ、さまざまな反論をよんだらしい。たとえば、H. サイモンは、スタントマンの仕事の99%は事故をさけるための計画づくりにあるという話しを引き、サッチマンの例はおよそわれわれの直観に反する(extremely counterintuitive)と批判している(Vera and Simon, 1993, p.16)。それに対してサッチマンは、確かに「みごとに捨て去る(effectively abandon)」と書いたのはまずかったかもしれないと認めたうえで、だが、それにつづく文章をみればわかるように、計画が不要だといっているのではなく、計画には別の目的があるといっているのだ、と反論している(Suchman, 1993, p.74)。うえに引用した文章がその「別の目的」に関する部分である。

*2:この部分は文章がわかりにくいので、原文をあげておく。"The purpose of the plan in this case is not to get your canoe through the rapids, but rather to orient you in such a way that you can obtain the best possible position from which to use those embodied skills on which, in the final analysis, your success depends".

*3:Feitelson, J. and Stefik, M. 1977. A case study of the reasoning in a genetics experiment. Heuristic Programming Project, Working Paper 77-18, Stanford, CA: Stanford University.

*4:偶然とそれに気づく賢明さによって、探していたものとは異なるものを発見すること。セレンディップスリランカの旧名)の3人の王子が旅をするなかで、彼らの能力や賢明さによって、有益なものを偶然発見するという昔話に由来する。