プロジェクトマネジメントを哲学する

計画は幻想だ、PDCAは気休めだ、などなど

計画15:計画と状況的行為(3)

行為が状況的であることをしめすふたつめの例は、カヌーで急流をくだる話しである。サッチマンは、「計画は、状況に対応した行為をおこなうための判断材料であって、いかなる意味においても、行為の進路を決定するものではない」(p.52)という。
たとえば、カヌーで急流をくだろうとするとき、その人は滝のうえにしばしとどまり、くだりかたを計画するかもしれない。「できるだけ左のほうをいって、あのふたつの大きな岩のあいだをぬけよう。つぎのこぶのあたりは後ろ向きになって右にいこう」と。だが、その計画がいかに詳細なものであっても、実際にカヌーが急流をくだる際にはおよそ役に立たない。流れに対応したり、カヌーをあやつる段になると、人はみごとに計画を捨て去り、自身のありとあらゆる身体化された能力をたよりにするのである*1。「この場合の計画の目的は、カヌーに急流をくだらせることではない。そうではなく、その最終分析において、その人の成功がかかっているところの身体化された技能をもちいるための最善の可能な位置を得させるべく、その人をみちびくことにある*2」(p.52)。つまり、計画は、進むべき道をしめすものではなく、瞬間瞬間をのりきるための最善の態勢を可能にするためのものだというのである。このあとで、サッチマンは、「地図が世界をめぐる旅行者の動きを文字どおりの意味でコントロールするなどと主張することが馬鹿げているように、計画が行為をコントロールすると考えるのは間違っている」(p.189)と断言している。

3つめの例としてあげられているのは、フェイテルソンとステフィク*3が報告した遺伝学者たちの実験計画の話しである。ふたりの観察によると、遺伝学者たちがたてる実験計画は、実験のみちすじを秩序だてて組み立てたようなものではなかった。その計画は、せいぜいのところ、実験室のさまざまな制約を整理し、彼らがそのなかで作業をおこなう環境を明確化する程度のものだった。「実験者たちは、事前の分析をとおして実験を計画するのではなく、そのときどきの観察結果を彼らの研究目的に関係づけることで、次に何をするべきかを決めていた。実験者たちの専門知は、計画を遂行することにではなく、たえず仮説を立てつづける能力や、実験のなかでセレンディピティ*4を追究する能力にあった」(p.188)。

(PCM(Project Cycle Management)の使い手である同業者のみなさんに思い出話をひとつ紹介します。PCMがODA業界に導入された初期のころ、PCMは研究プロジェクトにも使えるか、という議論がありました。勉強会だったか、FASIDにモデレーターが集まって議論をしました。そこで、マグロの研究をしていた大学の先生(彼もPCMモデレーター)が、「研究は発見が目的であって、まえもってゴールを設定することは難しい。ましてPDMに書かれた活動を実行すればゴールが達成できるなどというものではない」という趣旨の発言をしました。彼が言いたかったのは、研究者が求めているのはセレンディピティだ、ということだったのかもしれません。だから、PCMのような線形的な計画は研究プロジェクトにはむかない、と。その後、PCMが研究プロジェクトに使われるようになったという話しは聞いていません。)

閑話休題。以上、これらの事例から、Suchman (1987)では、「計画は状況判断のための材料にすぎない」という仮説がたてられ、それを検証するために、同書の後半で、PARCの「かしこい」コピー機とその使用者のコミュニケーションがエスノメソドロジーの会話分析の手法によって詳細に分析される。結論だけ紹介すると、コピー機は使用者の意図とそれにもとづく行為を事前に推測してプログラミングされているわけだが、使用者は推測をこえたさまざまなレベルの質問を投げかけるため、機械と人間のあいだのコミュニケーションは破綻する。一例をあげると、コピー機はコピーのための手順をしめすが、使用者はその手順そのものの妥当性を問うような「メタ」な質問をし、コピー機は沈黙する。コピー機はたんに使用者の「適切な」反応を待っているだけなのだが、使用者はその沈黙の理由をさまざまに憶測する。なぜなら、人間どうしのコミュニケーションにおいては、沈黙はつねに語りの不在以上の意味をもつから(p.146)。そして使用者は途方にくれる、といった具合である。

 

以上が、 Suchman (1987) で紹介される、行為が状況的であることをしめす具体的な事例である。
次回は、同書の結論に関して考察し、「計画と状況的行為」の終わりとしたい。

では、また。

*1:この部分は計画不要論とうけとられ、さまざまな反論をよんだらしい。たとえば、H. サイモンは、スタントマンの仕事の99%は事故をさけるための計画づくりにあるという話しを引き、サッチマンの例はおよそわれわれの直観に反する(extremely counterintuitive)と批判している(Vera and Simon, 1993, p.16)。それに対してサッチマンは、確かに「みごとに捨て去る(effectively abandon)」と書いたのはまずかったかもしれないと認めたうえで、だが、それにつづく文章をみればわかるように、計画が不要だといっているのではなく、計画には別の目的があるといっているのだ、と反論している(Suchman, 1993, p.74)。うえに引用した文章がその「別の目的」に関する部分である。

*2:この部分は文章がわかりにくいので、原文をあげておく。"The purpose of the plan in this case is not to get your canoe through the rapids, but rather to orient you in such a way that you can obtain the best possible position from which to use those embodied skills on which, in the final analysis, your success depends".

*3:Feitelson, J. and Stefik, M. 1977. A case study of the reasoning in a genetics experiment. Heuristic Programming Project, Working Paper 77-18, Stanford, CA: Stanford University.

*4:偶然とそれに気づく賢明さによって、探していたものとは異なるものを発見すること。セレンディップスリランカの旧名)の3人の王子が旅をするなかで、彼らの能力や賢明さによって、有益なものを偶然発見するという昔話に由来する。